深才地区とは

深才地区はどんなところ?

深才地区はどんなところ?


深才ってどんな意味?

「深才」は「しんさい」と読みます。「深沢(ふかさわ)地区」と「才津(さいづ)地区」を合わせた長岡市の地区名です。
かつて自治体として存在した三島郡「(しん)(さい)(むら)」(1901年~1954年)がこの地区名のもとになっています。
戦後開校した「深才中学校」も幕を閉じる中、現在は深才コミュニティ推進会議と深才コミュニティセンターが「深才」の名を受け継いでいます。

深才地区の位置

信濃川左岸で長岡市の南西部に位置しています。北は「新産センター」、南は「親沢町」、東は「渋海川」、西は「西部丘陵」(古くから長峰と呼ばれていた)がおおよその範囲です。
長岡駅からは近いところで5㎞、宮内駅からは3.5㎞、来迎寺駅からは2㎞ほどです。長岡ICからは近いところで0.5㎞、長岡南越路スマートICからは3㎞ほどです。

所在地  新潟県長岡市(新産センターから南側〜親沢町)
世帯数2,341戸
人口4,747人(令和8年4月1日現在)
町内会全13町内会
小学校区才津小学校・深沢小学校

13の町内会

13の町内会


深才地区は以下の13の町内会で構成されています。

親沢町 / 深沢町1丁目 / 深沢町2丁目 / 深沢町3丁目 / 深沢町4丁目 / 技大宿舎 / 上富岡 / 藤橋 / 長峰町 / 才津1丁目 / 才津2丁目 / 才津3丁目 / 才津4丁目

小学校区

学校名通学区域
深沢
小学校
深沢町、親沢町
才津
小学校
上富岡1・2、上富岡町、西津町の一部、才津町、才津東町、才津西町、才津南町、福田町、新産1〜4、新産東町、長峰町、藤橋1・2、西野(泉島区域)

深才地区の環境

深才地区の環境


深才地区は、長岡市移住定住ポータルサイトで「田園エリア」「産業エリア」に位置づけられています。「田園エリア」であったのは古い時代からですが、信濃川左岸用水路の建設やほ場整備事業を経て、現在は一帯に美田が広がる県下有数の穀倉地帯となっています。「産業エリア」の代表となるのは新産センターで、長岡ICの近くに180以上の企業が集積しています。また、現在は当地区に隣接する西部丘陵東地区にも大企業の進出が進んでいます。

農作業の様子
新産センター
西部丘陵東地区への企業進出

当地区はさらに、「学術研究のエリア」「医療と福祉のエリア」とも言えます。長岡技術科学大学と長岡崇徳大学の2大学、田宮病院と悠遊健康村病院の2病院、また大学・病院に関連する研究施設や福祉施設も充実しており地区住民の職場にもなっています。

長岡技術科学大学
長岡崇徳大学
田宮病院
悠遊健康村病院

このほか、地区内には藤橋歴史の広場、長岡カントリークラブや国営越後丘陵公園(里山口)があり、少し足を延ばせば、県立歴史博物館や馬高縄文館、ニュータウン運動公園やアクアーレ長岡、動物愛護センターなど、休日を楽しむことのできる施設も数多くあります。

藤橋歴史の広場
長岡カントリークラブ
国営越後丘陵公園
県立歴史博物館
馬高縄文館
県立動物愛護センター
ニュータウン運動公園
アクアーレ長岡

当地区は、1世帯当たりの敷地が比較的広く、敷地内で学生向けアパートを経営したり家庭菜園やガーデニングを楽しんだりする世帯が多いのも特長です。長岡中心市街地の近くで、自然環境も社会環境も豊かな深才地区で一緒に楽しく暮らしませんか。

長峰町上段から見る風景
深沢町上段から見る風景
深沢町1丁目から見る越後三山
ひまわり畑と長岡技術科学大学

深才の歴史と文化遺産

深才の歴史と文化遺産


深才地区は、縄文時代から人々が暮らしてきた歴史の深い土地です。西部丘陵地帯には、全国的にも貴重な遺跡が残されています。

国指定史跡

藤橋遺跡

今から2,000年から2,500年前の人々が生活した縄文期の集落跡です。ヒスイでつくった勾玉や石鏃、藤橋式土器などが、無数の馬蹄形に広がった柱穴とともに見つかっています。1978年には、新潟県を代表する縄文時代の遺跡として、国の史跡に指定されました。

縄文中期〜後期

岩野原遺跡

縄文中期から後期の遺跡。82基の竪穴式住居のほか、土器の破片ややじり、石斧、土偶、ヒスイを加工したネックレスなどが出土しています。遺跡は保存されていませんが、出土品は馬高縄文館に展示されています。また、火焔土器は海外からの注目も集め、大英博物館で2016年から3年間常設展示されました。

※写真準備中

深才ゆかりの人物

深才ゆかりの人物


深才地区からは、日本の産業・文化・学術に貢献した人物が数多く生まれています。

1849–1922

田中長嶺

たなか ながね

上富岡生まれ


貧しかった農民の生活基盤を支えるため、当時だれも考えの及ばなかった「シイタケの原木栽培法」や「炭焼き技術の改良」を全国に普及させました。山間農村部の産業振興に生涯を捧げた人物です。

1860–1914

水沢南芳

みずさわ なんぽう

才津生まれ


幼い頃から絵画の才能を発揮し、花鳥画や人物画を学んだのち、滝和亭に師事。明治の女流南画家・野口小蘋とも親交が深く、華族女学校の絵画教師に招かれました。のちに東京女学館でも教鞭を執った、明治〜大正時代を代表する日本画家です。

1877–1958

高頭仁兵衛

たかとう にへえ

深沢町生まれ


13歳で初めて弥彦山に登り、山に魅了されました。まだ登山が一般的でなかった時代に日本の名峰をことごとく踏破。1,374ページに及ぶ大著「日本山嶽志」を著し、日本山岳会の設立にも奔走するなど、日本の登山文化の礎を築いた人物です。

1890–1981

遠藤倉治

えんどう くらじ

上富岡生まれ


1926年から1945年までの激動の時代に、5期20年にわたって深才村長を務めました。村政だけでなく、村の各種活動や村民の暮らしについても克明に綴り続け、その日誌は後年「深才村長日誌」として出版されています。2023年にはNHKドキュメントで全国に放送され、大きな反響を呼びました。